第十六話

三時間目って授業何やったっけ…。誰もいなくなった教室に、一人残って日誌を書く。
聞こえるのはシャーペンを動かす音と、グラウンドから届くテニス部の掛け声。
もう大分日が伸びるようになった。初夏の風が教室に舞い込み、静かにカーテンを揺らす。

微かな足音が聞こえ知らず体に力が入った。思わず逃げたい様な衝動を抑える。

「もう書き終わりますか?」

穏やかな声で聞いてきたそいつは、俺の前の椅子にゆっくり腰掛けた。

「…もうちょい」

誰もいない放課後の教室。初めて二人で喋ったのもそういえばこういう状況だった。
でも今はあの時とは違う緊張をしている。

「あのさ…直江」
「はい」
「彼女いる?」
「…いませんよ」

嘘なんかつかなくていいのに。俺にくらい、教えてくれてもいいのに。

「この前、駅前で見たんだ。仲良さげに歩いてるお前と美人な女の人…。付き合ってるんだろ」

あの光景を思い出す度に胸にドロドロした物が渦巻いて、気持ち悪い 。 誤魔化すようにカチカチとシャーペンの芯を出したり戻したりする。
直江は「は?」という顔をした後、目を見開いた。

「違います」
「違わなくねーだろ」

奥歯を強く噛み締める。やばい、泣きそう。

「ごめん…俺、今まで本当無神経だった。…彼女いたなんて、知らなくて」

段々と顔を見ていられなくて俯いてしまう。
頭がグチャグチャしてパンクしそうだ 。

「もう直江ん家、行かないから…」
「高耶さん!」

シャーペンを握り締めていた手を強い力で握られる。おどろいて顔を上げると、珍しく直江が焦った顔をしていた。

「誤解だ。あなたが見た奴は
俺の従兄妹なんです!」
「いとこって…いと子って誰だ!」
「名前じゃなくて従兄妹です!父方の親戚で、門脇綾子といいます」
「……え」

え。従兄妹?

「彼女なんかじゃない。…泣かないでください」
「泣いてなんか…」

いつの間にか傍にきた直江が、跪いて俺をぎゅうっと抱きしめた。煙草の匂いに包まれる。

「ちょ…!」
「だからもう家に来ないなんて、そんなこと言わないで」

直江は小さく呟くと、大きな掌で俺の頭を撫ぜた。

「さ、もう帰りましょう。帰って桃を食べないと」

そうだ…桃。食べに行くって約束してたんだ。
体を離した直江が机の日誌を閉じる。俺は釣られたようにバックを持って立ち上がった。




閉まっている扉を開けようとしたが、直江が取っ手を押さえたので叶わなかった。

「高耶さん」

振り返ると顔の横に手をつかれ、腕の中に閉じ込められる。

「彼女はいませんが、好きな人はいます」

そう言って屈んだ直江が何をするのか分かったが、あまりにも真剣な顔に避けることができなかった。固まる俺の唇に、直江のが触れる。

「あなたが好きだ」

運動部は部活を終え、外はいつの間にか静かになっていた。

「な……」

なんで、

「なんで今言うんだ…」

みっともなく震える声。
直江は申し訳なさそうに謝り、もう一度俺を抱きしめた。

「俺はズルイ男です。今を逃したら、あなたを俺のものに出来なくなるかもしれない…」

それに、と耳元で低く囁かれる。

「ヤキモチ、妬いてくれたんでしょ?」

男同士とか先生と生徒とか年齢の差だとか。そんな禁忌を一遍に犯しそうな俺たちは、放課後の学校の片隅で見つめ合っていた。
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